自分の本質
お前はいつも当たり障りのないことをいう、はっきりしないと社長に言われた。その通りである。人を傷つけたくないからである。
ただ、故に八方美人になり、大切な人の大切な時にきちんと力になれなかった。
今日になって気づいたのは人を傷つけたくない以上に自分が傷つきたくないのだとわかった。
大事な人間に対して大事な時に、肝心な時に失敗してしまう。大きな失敗は3回目。就職と大事な人を2回傷つけた。なんで悩んでる人に自分のエゴを言ってしまったのか。
悲しみと不安が募る。結局は今回も自分が救われることだけ考えている。わがままな自分である。
尽くす側と尽くされる側
人は尽くす側と尽くされる側という二つに分けるならば、自分は前者であろう。
周りからは愛されてるねとか癒されるとか言われても結局は尽くさないと相手への愛を感じることができない(家族愛は複雑でまた別ですが)不安で仕方がない。
不安をずっと引きずって生きていくのは辛い。年を経ても孤独には弱いなと思う。
プライベートも仕事も
プライベートでは大きな転機があり、少しの間大事な人と会えなくなった。もしかしたら1年単位かもしれない。生きるというのは辛いことも多いなと思う。
今思えば自分は狭く深く人と繋がりを求めてしまった。だからそれがなくなると心は崩れる。今回も流されて何も手助けできないでいる。
仕事は山ほど堆くある。どうなるのかやるしかない。心と身体がバラバラになってしまっている。評価はされているのかいないのかわからない。仕事はしているがいわば実務でありいくらしても評価は難しそうである。周りから浮いてしまった。
あと一年。一段落したら長い休みを取ろうと思う。
三遊亭円丈師匠
たまたま北千住の駅を歩いていたら、階段のところで少し腰が曲がった、やや疲れているようなおじいさんを見かけたらそれが円丈師匠でした。
それが今でも思い出されます。落語を一生懸命にやり尽くし、まだまだやるぞという仕事人の姿のかっこよさがありました。
そして、この師匠は本当に北千住にいるのだなと、落語の話題だけではなくてほんとにこの街に溶け込んでいるのだなと思いました。
本当に長い間お疲れ様でした。またあなたの残した落語を聞き続けます。
静かな気持ち
今日は驚きがありました。思えば仕事が多くて人に気を配ることができていなかったと思います。
これからはもう少しそうした気持ちを持ち過ごそうと思います。
ジムにももっと行こう。自分を見つめて自分をなおそう。